「ルネサンス研究所」設立に向けて
「ルネサンス研究所」設立に向けて
まえがき――〝人々〟へ
およそ一年に亘る討論と試行錯誤の結果、私たちは特殊な「研究所」の設立を目指すことになった。心ある人々に私たちの真意を伝え、参集を呼びかけるために、以下に読まれる文書が用意された。
現代の世界は後の世から、いったいどのような時代と規定されるのだろうか。もとより、歴史上そのような問いに同時代的な答えが得られたことはなかったろう。しかし歴史はまた教えていないか。少なくとも近代にあっては、そのように問うことが、あるいは問い続ける勇気をもった者たちが、歴史を作る事業に真に現実的な足跡を刻んできた、と。なによりそのことに自覚的に、私たちは同時代を問う集団的な場を作ろうと考えた。
「現代」が問題とされるのは、とりわけその自明性が崩壊しているときだろう。実際、冷戦が終結して以降の今日、誰もが「かつて」なく、時代はもはや「かつて」のようではないと痛感していないか。明日が見えない焦燥を「グローバル化」の一語に体現させながら。時代自身が、時代を問うているのである。私たちの「研究所」はなにより、それを独自に共鳴させる場であろうとする。むろん、人々から発見されることを願いながら。
共鳴が生れ、場のそとに拡大していくためにはしかし、ただ「問う」と述べても既知の諸課題を羅列しても、〝最初の一撃〟とはなりえないだろう。同時代を真に問うためには、現在のなにを我々が知っていないかを教えてくれる、時代の〝そと〟に身を置き、そこから問いを発する必要がある。誰も時代の拘束を逃れえないものの、時代の〝なか〟にあって、ほかならぬ時代によって〝そと〟にされている場所を発見する必要がある。以下の文書では、その〝そと〟が仮に「共産主義」と名づけられている。知られすぎているがゆえにもはや誰も知ろうとしないこの呼称を再度用いることに、同時代を問う意志が込められている。これを、私たちからの問いかけとして発したい。現在についても未来についても、私たちはなにかを知っているとは主張しないが、その非‐知を現実的な問いに変えるために、時代がそれを追放することで自己規定しているかのような「共産主義」は、一つの有効な作業仮説たりうるかもしれない。よって、まずはこの文書を中心に議論を重ね、問いを社会の〝なか〟に拡大していくそのことを、「研究所」活動の第一歩として提案したい。「現代」の一つの反映としてこの文書を受け取る私たちの同時代人が、これをどう読むのか語りはじめるとき、「ルネサンス研究所」はすでにそこにある。
設立発起人一同
第一回シンポジウム 「ルネサンス研究所が提起するもの」
(司会 古賀暹・表三郎) |
私たちにこの小さな研究所を構想させたものは、社会運動をめぐる危機意識である。経済危機でも統治システムの危機でもなく、社会運動の危機であり、しかも危機の主体である社会運動が「客観的」には危機に陥っていないという特殊な危機である。さらにこの危機は、世界的に観察されるという点で現在という時代を歴史的に特徴づける、と私たちは考えている。この共通の危機意識に結び合わされて、世代も政治的経験も異なる私たちは、研究所という形での共同作業を模索しはじめている。
私たちはこの二〇年、社会運動の世界的再生(ルネサンス)に立ち会ってきた。一九六八年の反乱とは明らかに異質であるものの、同じように世界同時性と同質性をもった反乱の連続的生起を、私たちは目撃してきた。民衆の反乱がソ連邦を崩壊させるや、その波は世界中に及び、「グローバル資本主義」に〈抵抗〉する大統一戦線を世界の街頭に出現させた。すると「九・一一」がそこに、対抗関係を「テロ」対「戦争」の図式へと疎外する力をもち込んだ。その間にも各国の大都市には「外国人」が溢れ、「第三世界」が世界中に拡散して、人種間-民族間的色彩を帯びた紛争を遍在させている。進行中のこのグローバル化か、別の「オルタナティブ」なグローバル化か、それとも国境を越えるテロか、国家に主導される治安戦争か――異種の図式の重なりから生れる緊張関係そのものが、世界のいたるところで社会運動の新しい土壌となっている。どんなに異質で局所的な不都合も、「グローバルな問題」の直接的反映であると実感され、そのことが様々な規模とかたちの反乱に次々と火をつけていく。ミクロな具体的問題がすべてグローバルな位相を内部に折り込む構造に促されて、「運動が運動を育てる」現象が拡大しているのである。
冷戦という名の蜜月のパートナーを失った資本主義は、その歴史的勝利をほんの束の間しか誇ることができなかった。今や誰も「歴史の終焉」が口にされたことなど忘れている。世界を覆う唯一のシステムになったはずの〈市場〉は、自らの矛盾と失敗をグローバル化するシステムに反転し、世界のいたるところで、終わったはずの反資本主義的な社会運動を増殖させている。いかに直接的利害と目標が異なり、相互に敵対的な質をはらむ運動であっても、それらの差異そのものが〈共通の敵〉としての資本主義の姿を浮かび上がらせてくる。今日の反乱者は互いに競合しつつ、その共鳴を社会運動ルネサンスとして表現しているのである。再生した社会運動が総体として示すこの〈資本主義への抵抗〉こそ、私たちは時代を深く規定するものと把握する。
しかし同時に、〈抵抗〉は目下のところ「様々なかたち」のものでしかない。〈市場〉とそれへの〈抵抗〉が対峙する構図が世界的に支配的なものとなったとはいえ、〈抵抗〉を構成する社会運動は、宗教的原理主義からサンジカリズム、さらには小規模で自律的な非資本主義的相互扶助システムの構想にいたる文字通り「様々な」主観的内実をもっている。排外主義さえ新自由主義イデオロギーに抗する力としての側面をもっているだろう。言い換えるなら、国際的にも国内的にも、資本主義への〈抵抗〉は〈弱者統一戦線〉の実態形成を阻むほどに「様々」であり、客観情勢が観察者の目にかろうじて社会運動ルネサンスの同時代性を見せているにすぎない。反資本主義を旗印とする政治的階級形成は、いささかも進展していないと断ずるべきである。進展しているのは「運動の連鎖」であって、共通の政治課題は「反」や「オルタ」という言わば実体を欠いたままでしか拡大する傾向を見せていない。都市暴動から自殺にまでいたる、一種の反乱とみなしうる激発性の現象が頻繁に生起しながら、そこに定位する政治課題は一個の大きな主観として育っていないのである。これこそ、私たちが危機を語る所以にほかならない。過去二〇年の社会運動の成長が〈敵〉ならぬ〈我々〉の共通性を創出しえていない、そのことが政治的危機であると私たちは考えている。
「もう一つの世界」とは、〈市場〉を微調整する諸〈抵抗〉路線のぬるま湯的共存に甘んじることであったのか。そうだとすれば、社会運動はあらかじめ敗者の〈救済〉に甘んじる決断を、それと口にすることなく行っていると言わねばならない。〈私〉の自己主張を〈全員〉の解放に等置する「階級形成の矛盾」――反乱のなかにおける〈我々〉の生成――を引き受ける営為としての政治を、あきらめていることになる。そして他者を前にした〈倫理〉一般を、構想しえない「反」の内実の代わりに差し出していることになる。他人の〈救済〉が問題であるならば、善意のブルジョワジーに任せておく、あるいは彼らを応援することでも足りるのではないか? 彼らとて、搾取の対象が死んでは元も子もなく、安定した搾取のためには一定の譲歩と同意を必要とすることは知っている。
私たちは「オルタナティブ」の空虚をもはや潔よしとしない。そこをもう一度〈共産主義〉によって埋めたいと考えている。共産主義は目指すべき未来の状態ではなく、現状を廃棄する現実の運動そのものであるとマルクスは語っていた。この定義にしたがえば、共産主義は様々な反乱や社会運動のなかにこそ発見されねばならず、それらの相互連関のなかでのみ自らを深めうるはずである。そして現実の運動は、共通の政治課題の集団的構成としての〈共産主義〉によってのみ育ちうるはずである。だとすれば、社会運動の危機とはまさに〈共産主義〉の欠如を示すものではないのか。そう問うことからはじめたい私たちは、もはや〈社会主義革命〉の向こうに〈共産主義〉を置くことはしない。現状を揺り動かしながら、「様々」であることに止まっている〈我々〉の集団性を進化させていくことを、私たちは再度〈共産主義〉の定義として掲げたいと思う。
国家を手段として国家を死滅させようとした過程が、現実には共産主義ならぬ資本主義にいたる長い道のりであったこと、社会主義は一種の開発独裁であり国営化が社会の停滞と腐敗を招いてきたことを、私たちは素直に認めることから出発したい。すでに国家は、資本の相互依存システムによって、ほとんど死滅過程に入っているのかと疑えるほど弱体化させられているではないか。そのような国家に提供する政策プログラムとして社会主義を構想することは、もはや資本主義の失敗を増幅させることでしかないだろう。私たちの〈共産主義〉にとっては、社会主義そのものを「国家権力」の迷妄から解放してやる必要がある。しかも統治の不在としてのアナーキーに夢を託すのではなく、〈我々の権力〉を足もとから拡大させる必要がある。つまり私たちは、生産主体としての〈プロレタリア〉による「独裁」を、発明しなおしたいのである。この企図が一つの逆説であることを私たちは進んで認めるものであるが、半ば機能不全に陥っている主権国家は、そうであるがゆえにまさに「様々な」逆説を生んでいないか。かつて「民営化」は労働者階級の政治的解体を目的に行われたが、その解体は解体の実行者であった国家の統治能力まで解体に追い込み、人々の〈自己統治〉に頼る度合いを強めているではないか。「社会」に共産主義的な相互扶助の責任を押し付けることで、自らの主権的性格を守ろうとさえしているではないか。
「国民」は弱い国家を目の当たりにし、強い「権力者」――「リーダーシップのある政治家」――の出現を待望しながら、そのような「権力者」を何より警戒している。誰が統治してもさして事態は変わらないという「有権者の気もち」は、その「事態」の中身を問いさえしなければ、社会主義国家の理想だったはずである。無規定でありながら絶対的な「善」を制度理念の最終審級に担保されている「有権者」と、国境を越える資本の間に立って右往左往しているのが現在の主権国家であり、その統治無能力こそが〈社会主義革命〉を無効にしてしまったのだ。今や大多数の人間が「賃労働者」なのであるから、「社会主義」は一面すでにある。そして中上層賃労働者が拠出する資金が「資本」に変態させられるのであるから、今日の「ブルジョワジー」とは一面「賃労働者」のことである。かつては「工場」そのものが分かりやすい階級形成の場となってくれたが、今日ではその「工場」が先進資本主義国からは日々姿を消し、「生産点」を欠いたまま「資本家=賃労働者」が自分自身と争い、したがって誰とも争わず、ゆえに調停しようもない利害対立を「福祉」国家に調停させようとする。そんなことは不可能だから「自己責任」ではないのか? だからこそ、国家の手前における〈共産主義〉が課題となるのである。国家が人々に「自己責任」を求めるとき、この〈共産主義〉は国家に向って〈我々〉による「自己決定」の範囲を拡大させよと要求するだろう。そのことで、国家の自滅に手を貸すだろう。国家権力の打倒にまで諸矛盾の解決を先送りするのではなく、まして〈革命〉を実行してから考えるのではなく、〈我々〉による現在の解決に国家的制度を従わせようとするだろう。それを革命と呼ぶかどうかは、さしあたって小さな問題でしかない。
国家の手前には、広大な領域が広がっている。そこには「経済」のみならず、人々の歴史的経験が蓄積されて習俗や文化やイデオロギー等々と呼ばれるものに凝固した社会領域の全体が広がっている。今日の社会運動ルネサンスも畢竟、そこから養分と限界の両方を引き出しているはずだ。このルネサンスが〝本物〟である――私たちは誰よりもそれを承認する――かぎり、近代の幕開けを告げたあのルネサンス同様、そこには社会の最深部における変動、新しい文化と政治形態を発明するまで止まない運動が投影されているはずである。この〈変動‐運動〉のただなかに〈共産主義〉はある。最高の自由を最高の共同性によって実現するまで止まない運動が、ある。
私たちはこの二〇年、社会運動の世界的再生(ルネサンス)に立ち会ってきた。一九六八年の反乱とは明らかに異質であるものの、同じように世界同時性と同質性をもった反乱の連続的生起を、私たちは目撃してきた。民衆の反乱がソ連邦を崩壊させるや、その波は世界中に及び、「グローバル資本主義」に〈抵抗〉する大統一戦線を世界の街頭に出現させた。すると「九・一一」がそこに、対抗関係を「テロ」対「戦争」の図式へと疎外する力をもち込んだ。その間にも各国の大都市には「外国人」が溢れ、「第三世界」が世界中に拡散して、人種間-民族間的色彩を帯びた紛争を遍在させている。進行中のこのグローバル化か、別の「オルタナティブ」なグローバル化か、それとも国境を越えるテロか、国家に主導される治安戦争か――異種の図式の重なりから生れる緊張関係そのものが、世界のいたるところで社会運動の新しい土壌となっている。どんなに異質で局所的な不都合も、「グローバルな問題」の直接的反映であると実感され、そのことが様々な規模とかたちの反乱に次々と火をつけていく。ミクロな具体的問題がすべてグローバルな位相を内部に折り込む構造に促されて、「運動が運動を育てる」現象が拡大しているのである。
冷戦という名の蜜月のパートナーを失った資本主義は、その歴史的勝利をほんの束の間しか誇ることができなかった。今や誰も「歴史の終焉」が口にされたことなど忘れている。世界を覆う唯一のシステムになったはずの〈市場〉は、自らの矛盾と失敗をグローバル化するシステムに反転し、世界のいたるところで、終わったはずの反資本主義的な社会運動を増殖させている。いかに直接的利害と目標が異なり、相互に敵対的な質をはらむ運動であっても、それらの差異そのものが〈共通の敵〉としての資本主義の姿を浮かび上がらせてくる。今日の反乱者は互いに競合しつつ、その共鳴を社会運動ルネサンスとして表現しているのである。再生した社会運動が総体として示すこの〈資本主義への抵抗〉こそ、私たちは時代を深く規定するものと把握する。
しかし同時に、〈抵抗〉は目下のところ「様々なかたち」のものでしかない。〈市場〉とそれへの〈抵抗〉が対峙する構図が世界的に支配的なものとなったとはいえ、〈抵抗〉を構成する社会運動は、宗教的原理主義からサンジカリズム、さらには小規模で自律的な非資本主義的相互扶助システムの構想にいたる文字通り「様々な」主観的内実をもっている。排外主義さえ新自由主義イデオロギーに抗する力としての側面をもっているだろう。言い換えるなら、国際的にも国内的にも、資本主義への〈抵抗〉は〈弱者統一戦線〉の実態形成を阻むほどに「様々」であり、客観情勢が観察者の目にかろうじて社会運動ルネサンスの同時代性を見せているにすぎない。反資本主義を旗印とする政治的階級形成は、いささかも進展していないと断ずるべきである。進展しているのは「運動の連鎖」であって、共通の政治課題は「反」や「オルタ」という言わば実体を欠いたままでしか拡大する傾向を見せていない。都市暴動から自殺にまでいたる、一種の反乱とみなしうる激発性の現象が頻繁に生起しながら、そこに定位する政治課題は一個の大きな主観として育っていないのである。これこそ、私たちが危機を語る所以にほかならない。過去二〇年の社会運動の成長が〈敵〉ならぬ〈我々〉の共通性を創出しえていない、そのことが政治的危機であると私たちは考えている。
「もう一つの世界」とは、〈市場〉を微調整する諸〈抵抗〉路線のぬるま湯的共存に甘んじることであったのか。そうだとすれば、社会運動はあらかじめ敗者の〈救済〉に甘んじる決断を、それと口にすることなく行っていると言わねばならない。〈私〉の自己主張を〈全員〉の解放に等置する「階級形成の矛盾」――反乱のなかにおける〈我々〉の生成――を引き受ける営為としての政治を、あきらめていることになる。そして他者を前にした〈倫理〉一般を、構想しえない「反」の内実の代わりに差し出していることになる。他人の〈救済〉が問題であるならば、善意のブルジョワジーに任せておく、あるいは彼らを応援することでも足りるのではないか? 彼らとて、搾取の対象が死んでは元も子もなく、安定した搾取のためには一定の譲歩と同意を必要とすることは知っている。
私たちは「オルタナティブ」の空虚をもはや潔よしとしない。そこをもう一度〈共産主義〉によって埋めたいと考えている。共産主義は目指すべき未来の状態ではなく、現状を廃棄する現実の運動そのものであるとマルクスは語っていた。この定義にしたがえば、共産主義は様々な反乱や社会運動のなかにこそ発見されねばならず、それらの相互連関のなかでのみ自らを深めうるはずである。そして現実の運動は、共通の政治課題の集団的構成としての〈共産主義〉によってのみ育ちうるはずである。だとすれば、社会運動の危機とはまさに〈共産主義〉の欠如を示すものではないのか。そう問うことからはじめたい私たちは、もはや〈社会主義革命〉の向こうに〈共産主義〉を置くことはしない。現状を揺り動かしながら、「様々」であることに止まっている〈我々〉の集団性を進化させていくことを、私たちは再度〈共産主義〉の定義として掲げたいと思う。
国家を手段として国家を死滅させようとした過程が、現実には共産主義ならぬ資本主義にいたる長い道のりであったこと、社会主義は一種の開発独裁であり国営化が社会の停滞と腐敗を招いてきたことを、私たちは素直に認めることから出発したい。すでに国家は、資本の相互依存システムによって、ほとんど死滅過程に入っているのかと疑えるほど弱体化させられているではないか。そのような国家に提供する政策プログラムとして社会主義を構想することは、もはや資本主義の失敗を増幅させることでしかないだろう。私たちの〈共産主義〉にとっては、社会主義そのものを「国家権力」の迷妄から解放してやる必要がある。しかも統治の不在としてのアナーキーに夢を託すのではなく、〈我々の権力〉を足もとから拡大させる必要がある。つまり私たちは、生産主体としての〈プロレタリア〉による「独裁」を、発明しなおしたいのである。この企図が一つの逆説であることを私たちは進んで認めるものであるが、半ば機能不全に陥っている主権国家は、そうであるがゆえにまさに「様々な」逆説を生んでいないか。かつて「民営化」は労働者階級の政治的解体を目的に行われたが、その解体は解体の実行者であった国家の統治能力まで解体に追い込み、人々の〈自己統治〉に頼る度合いを強めているではないか。「社会」に共産主義的な相互扶助の責任を押し付けることで、自らの主権的性格を守ろうとさえしているではないか。
「国民」は弱い国家を目の当たりにし、強い「権力者」――「リーダーシップのある政治家」――の出現を待望しながら、そのような「権力者」を何より警戒している。誰が統治してもさして事態は変わらないという「有権者の気もち」は、その「事態」の中身を問いさえしなければ、社会主義国家の理想だったはずである。無規定でありながら絶対的な「善」を制度理念の最終審級に担保されている「有権者」と、国境を越える資本の間に立って右往左往しているのが現在の主権国家であり、その統治無能力こそが〈社会主義革命〉を無効にしてしまったのだ。今や大多数の人間が「賃労働者」なのであるから、「社会主義」は一面すでにある。そして中上層賃労働者が拠出する資金が「資本」に変態させられるのであるから、今日の「ブルジョワジー」とは一面「賃労働者」のことである。かつては「工場」そのものが分かりやすい階級形成の場となってくれたが、今日ではその「工場」が先進資本主義国からは日々姿を消し、「生産点」を欠いたまま「資本家=賃労働者」が自分自身と争い、したがって誰とも争わず、ゆえに調停しようもない利害対立を「福祉」国家に調停させようとする。そんなことは不可能だから「自己責任」ではないのか? だからこそ、国家の手前における〈共産主義〉が課題となるのである。国家が人々に「自己責任」を求めるとき、この〈共産主義〉は国家に向って〈我々〉による「自己決定」の範囲を拡大させよと要求するだろう。そのことで、国家の自滅に手を貸すだろう。国家権力の打倒にまで諸矛盾の解決を先送りするのではなく、まして〈革命〉を実行してから考えるのではなく、〈我々〉による現在の解決に国家的制度を従わせようとするだろう。それを革命と呼ぶかどうかは、さしあたって小さな問題でしかない。
国家の手前には、広大な領域が広がっている。そこには「経済」のみならず、人々の歴史的経験が蓄積されて習俗や文化やイデオロギー等々と呼ばれるものに凝固した社会領域の全体が広がっている。今日の社会運動ルネサンスも畢竟、そこから養分と限界の両方を引き出しているはずだ。このルネサンスが〝本物〟である――私たちは誰よりもそれを承認する――かぎり、近代の幕開けを告げたあのルネサンス同様、そこには社会の最深部における変動、新しい文化と政治形態を発明するまで止まない運動が投影されているはずである。この〈変動‐運動〉のただなかに〈共産主義〉はある。最高の自由を最高の共同性によって実現するまで止まない運動が、ある。
私たちはつまり、「政治革命」論者でも「社会革命」論者でも、ましてコスモポリタンな「世界共和国」論者でもない。そんなプランが時代遅れになってしまったところに今日の政治課題を見定めつつ、近代の歴史に再定位しようとするにすぎない。ゆえにまた、私たちは政治集団ではない。政治課題が不在であるところに、どのようにして政治集団が出現しうるというのか。政治課題を政治課題とするのは歴史的に形成された「広汎な大衆」の仕事でしかない。ただ、「広汎な大衆」が政治的階級形成を遂げるうえで利用可能な機関であってほしいと願うのみであり、そうした主観的願望を体現する名として、私たちは「研究所」を名乗る‐立ち上げることを選んだ。私たちは「革命的」な機関でありたいと望むが、それは革命の意味が「普遍的な批判であること、したがって革命そのものの批判であること」(マルクス)にあるからである。つまり私たちの「研究対象」をあらかじめ限定するものはなにもない。それを決めるのは、私たちになにかをさせたいと思う利用者のほうであり、私たちとしてはただ、〈共産主義〉の理念を利用者とともに、実践的な「問い」として今・ここに出現させる装置でありたいと願うのみである。
設立発起人のなかから寄せられたコメント
1)新開純也
この呼びかけ文のよいところは、リズムとエラン[躍動感]があり、現状への批判的精神に溢れている点である。私のような「オールドボリシェヴィーキ」には書けない文章である。なにより、「共産主義」をキーワードとしながら、現在問われているのがラジカル(根底的)な変革への志向であると提起している点に共感する。もちろん、内容に対する批判がないわけではない。また、いかようにも解釈できる(おそらく筆者が意図して)ところも見受けられる。しかし現在必要なのは、単なる幅広イズムとは異なる「左派」の共同作業であり、それを通した何かの創造であるだろう。なぜなら、誰も現在と未来を「分かって」いるわけではないうえ、様々な運動だけではなく思想界においても、共産主義やマルクス主義の復権ならずとも活性化が不可欠だと思うからである。私としては老骨、老脳に鞭打って、微力ながら「ルネ研」に参加する。
2)古賀暹
奇妙な文書であると同時に新鮮な文書であると感じた。どこが奇妙なのか。全体がとしか答えようはない。あえて二、三挙げれば、資本主義‐社会主義‐共産主義というかつて歴史的な順序とされた図式を根底から覆し、共産主義を現下の問題として据えろ、と主張している点。国家をすでに死滅しつつある過程として捉え、国家権力の掌握による社会主義に対しては否定的な点。さらに、通常ならば「共産主義」を訴える文書の結論は何らかの政治結社の設立を呼びかけるはずであるのに、結論が「研究所」となっている点、等々である。
今までの「フォーラム21」や「アソシエ」の呼びかけは、これほど挑発的ではなかった。「良識ある左翼」ならば誰もが納得できるであろうコンセンサスを念頭において書かれていた。それに対してこのアッピールは疑問だらけである。上の三点を例に取れば、なぜ社会主義‐共産主義の順ではいけないのか、その順でことを考えたレーニンをどう評価すべきなのか、等々研究すべきテーマが直ちに抽出されてくる。また、国家は死滅する過程にあるという主張からは、いつからそういう過程に入ったのか、ならば現代の国家とは一体何なのかなど、国家論に関する問いが矢継ぎ早に生まれてこざるをえない。
さらに言えば、文書は「社会運動の危機」を訴えているが、本当に危機なのかという疑問からはじまって、その危機は本当に「共産主義」によって克服されるのか、そんなことをすれば、かつての赤色労働組合主義と同じことになるのではないかといった疑念も浮かび上がってくる。
だから、私はこのアッピールを面白いと思うのである。たしかに、このアッピールはさまざまな労働運動家たちや「市民」運動家たちからは、現実の改良だけが問題であるこの時代に、こともあろうにマルクスの「亡霊」を復活させようとする唾棄すべきものと映ずるかもしれない。また、マルクス・レーニン主義を自称する人たちからは、権力を奪取することを語らないこの文書は、汚らわしい修正主義と映ずるかもしれない。しかもである。「広範な大衆」の政治的階級形成をすることを目的としつつも、あくまでも「研究所」なのだという。なぜなのか。そこではいったい「政治」と「研究」の関係はどうなっているのか。これは「統一戦線」なのか?だとしても具体的な闘争課題は何も提示されていない。つまり、疑問はつきない。
だから、私にはこの文書は面白いのである。もちろん、この研究会がどのように発展していくかは今後の運営次第であるのだが、はじめに行うべきは、このアッピールの挑発に乗って、上に挙げたようなもろもろの問題点を非妥協的に議論することだろう。さまざま分野の研究者やさまざまな「路線」をもった活動家、好奇心溢れる学生が集まり、論争ができる場を作るべきだと考えている。そうしたアーギュメントの空間をつくることが、「社会運動の危機」を克服する第一歩となるのではないかと期待している。
3)表三郎
60年の安保反対運動から半世紀が過ぎ、諸国家群からなる世界はいよいよ一大変貌の時を迎えつつある。この時に当たって、われわれが再結集し、世界をどう変えるかを共に研究し、討議し、運動しようとするのは,まことに時宜を得た試みであろう。これまでの運動、組織、理論のすべてを再検討することこそが、再出発の条件となるはずだ。小異を捨てて大同につくことこそ、われわれの今なすべきことであろう。全ては対話に始まる。
4)川上徹
「趣意書」は社会運動の危機意識から出発している。
ぼくは、「趣意書」が持っている多少挑発的で、かつ怒りが込められた論調に共感する。何に対して、誰に対して、挑発し、怒っているのだろうか。「私たち」以外の誰か、他者に向かっているのだろうか。いや、おそらくそうではないだろう。「趣意書」の筆者を含む「私たち」自身の過去(それが 「今」から遠かろうと近かろうと)、過去への省察、それらに対する知的怠慢に向けられたものではあるまいか。もし、そうであるとすれば、ぼくもその挑発に乗ってみようか、と考えたわけである。
ぼくはかねて現代の危機は「社会」の危機にあると考えてきた。その場合の「社会」とは、一般に「世間」とか「世の中」とかいわれる、抽象的で曖昧模糊としているもの(全体社会)ではなく、個人を単位とする相互主体的で有機的な関係を持った、人間的実態のあるもの(部分社会)を意味している。その 「社会」が存亡の危機にある。
人はみな、日々それぞれに意欲し、考え、引き受け、情熱をもって物事にあたり、それらの経験を重ねることによって、生きている価値を実感したいと強く望んでいる。だが、その価値は、自分を包み込んでいる人々のつながり、互いに主体的で自発的な人間の関係の中でのみ発見し、確認し、認めあえるものである。その関係を失ったとき、人は人たりうるのだろうか。いま、これらの関係から切り離されたまま、否応なくさまざまな「制度」や「システム」に組み込まれていく若者たちの、戸惑いのつぶやき、絶望的な悲鳴が、ぼくには聞こえるような気がする。おそらく独り合点ではないだろう。
なぜこんなことになったのか、だれが、何が、こうした結果に因果の責任があるのか。責任とまでは言わずとも、何らかの関係があるのか。人生の大半を、主観的には「左翼」として、しかもかなり周囲に対して騒がしく対してきた者として、おのれとの関わりにおいて考えておきたいと思うのである。
「趣意書」はぼくの文脈よりずっと先のこと、社会「運動」の危機を言っている。「共産主義」についてまで言及している。それらについては、いくつかの疑念がないわけではない。おそらくこの「趣意書」の意図を認めて集う人々も一様ではないと思われる。ぼくはむしろそこに期待したい。「社会」とは、 他者の視線を感受し、想像し、そのことによって自らの判断力、構想力を養ってくれる、自分の「居場所」となりうるところである。研究所がそのような一つの 「社会」であることを望む。
5)松田健二
提出された提案文のキーワードは「社会運動」と「共産主義」である。それについて私なりに理解したことを要約する。
① 社会運動について
日本でも世界でも、資本主義の形成と確立とともに、人々は政治運動と絡み合いながら様々な社会運動を展開してきた。1960年以降に限定していえば、石油・自動車産業を基軸とする大量生産・大量消費・大量廃棄の資本主義が生みだす諸問題に対応して、70年代には多様な社会運動が展開された。それらは、紆余曲折をたどりながら現在も持続されている。提案文で対象としている社会運動は、ソ連型社会主義の崩壊とともに出来したグローバル資本主義(新自由主義)に抵抗・対抗する、世界的に生起している社会運動である。
提案文は、この新たなる社会運動が総体として示す〈資本主義への抵抗〉を、時代規定的要因として把握している。その代表的な運動は「もうひとつの世界」をめざす世界社会フォーラムであろう。こうしたグローバル資本主義に対抗する20年にわたる社会運動は、いまだ〈我々〉の共通性を創出していないし、反資本主義を旗印とする政治的階級形成に進展していない。そこに社会運動の危機がある。(これは同時に政治運動の危機でもある)。
② 共産主義について
提案文はそうした現在の社会運動の限界──「オルタナティヴ」の空虚を埋めるものとして、共産主義を提起している。
マルクスの「共産主義は目指すべき未来の運動ではなく、現状を廃棄する現実の運動そのものである」という思想に立脚して、共産主義は様々な反乱や社会運動のなかでこそ発見されるものと規定している。また、現状を揺り動かしながら、「様々」であることにとどまっている〈我々〉の集団性を進化させていくこととしても、共産主義を定義している。
そして創立すべき研究所を、「〈共産主義〉の理念を利用者とともに、実践的な『問い』として今・ここに出現される装置である」と提案文は位置づけている。
「利用者とともに」とは、現実の政治運動と緊張関係を保ちながら、その担い手と協同して研究・文化活動を展開することである、と私は捉えている。
③ 研究所をどのように創り、運営していくか
提案文は従来のフォーラム型の呼びかけ文ではなく、旗色鮮明な「最初の一撃」となっている。政治運動そのものではなく、政治運動と緊張関係を保ちながら共産主義を発見していく、理論・文化・思想を創造する活動と運動。私は提案文の趣旨をこのように理解して賛成する。
6)山崎耕一郎
「労働」にこだわりながら、趣旨に賛同する。
私はかねてから、この数十年の中国経済の発展がマルクス経済学の正しさを証明している、と考えてきた。ここでいうマルクス経済学とは、ごく基礎的な「労働価値説」である。平たく言えば、労働が価値を生むということである。なぜそう考えたか。
1978年、「改革開放」政策が開始された時点で、中国には10億の人口があった。言い換えれば、貧しいが労働能力のある人間が数億人いた。資本はないに等しく、生産技術は極めて低い水準であった。「改革開放」以後、有り余る労働力めがけて、たくさんの資本が中国に押し寄せた。そして数十年後、中国は生産総量において日本に追いついた。さらに数十年たてば、国民一人当たりの生産量で日本に追いつき、総生産量でアメリカに追いつくと見られている。資本、技術が労働と結びついたから、巨大な富を産んだのである。続いて有望な国だと見られるインドも、労働力の豊富な国である。
中国の政治や制度のあり方について色々な議論があることは、私も承知している。その議論には私も参加したいと思っている。生産が量的に増えれば国民すべてが幸福になれるとはかぎらないのはもちろんである。しかし、この国の経済的成長の速さ、大きさについては誰も否定できないと思う。経済的豊かさは人間を幸福にする基礎的な条件である。
この間の日本ではどうか。周知のようにたくさんの労働力が、働く場を見出せないでいる。労働条件も低下している。現在の日本は、経済的な豊かさについてはかなりの水準に達している。にもかかわらず多くの人が、働き口に辿りつけない。辿りついても、企業間競争に駆り立てられて使い捨てにされている。この点で現在の日本は、1970年代以降、明らかに後退した。
社会主義とか共産主義とかを論ずるにあたり、権力の所在とか政治や社会の制度から出発して議論するのではない、という研究所設立の趣旨に賛成である。ルネサンスという名称にも好感をもっている。
ただ「労働」にはもう少しこだわってよいのではないかと思う。現在も将来も全ての人々が生き生きと働ける場所を獲得する、あるいは提供するというのが労働者運動の最もだいじな課題であり、それを実現できない現在の社会への批判は重要だからである。
労働して富を生産するといっても、生産物の量を増やせばよいという時代ではないことは言うまでもない。環境との調和は欠かせない。物の生産だけでなく、高い文化、良好なサービスの生産もだいじだ。そういう生産も含めて、人々の労働力が生き生きと活動できる社会を作ることが、我々の課題だと思っている。もちろんそのためには、労働者の様々な運動が進化しなければならない。
この呼びかけ文のよいところは、リズムとエラン[躍動感]があり、現状への批判的精神に溢れている点である。私のような「オールドボリシェヴィーキ」には書けない文章である。なにより、「共産主義」をキーワードとしながら、現在問われているのがラジカル(根底的)な変革への志向であると提起している点に共感する。もちろん、内容に対する批判がないわけではない。また、いかようにも解釈できる(おそらく筆者が意図して)ところも見受けられる。しかし現在必要なのは、単なる幅広イズムとは異なる「左派」の共同作業であり、それを通した何かの創造であるだろう。なぜなら、誰も現在と未来を「分かって」いるわけではないうえ、様々な運動だけではなく思想界においても、共産主義やマルクス主義の復権ならずとも活性化が不可欠だと思うからである。私としては老骨、老脳に鞭打って、微力ながら「ルネ研」に参加する。
2)古賀暹
奇妙な文書であると同時に新鮮な文書であると感じた。どこが奇妙なのか。全体がとしか答えようはない。あえて二、三挙げれば、資本主義‐社会主義‐共産主義というかつて歴史的な順序とされた図式を根底から覆し、共産主義を現下の問題として据えろ、と主張している点。国家をすでに死滅しつつある過程として捉え、国家権力の掌握による社会主義に対しては否定的な点。さらに、通常ならば「共産主義」を訴える文書の結論は何らかの政治結社の設立を呼びかけるはずであるのに、結論が「研究所」となっている点、等々である。
今までの「フォーラム21」や「アソシエ」の呼びかけは、これほど挑発的ではなかった。「良識ある左翼」ならば誰もが納得できるであろうコンセンサスを念頭において書かれていた。それに対してこのアッピールは疑問だらけである。上の三点を例に取れば、なぜ社会主義‐共産主義の順ではいけないのか、その順でことを考えたレーニンをどう評価すべきなのか、等々研究すべきテーマが直ちに抽出されてくる。また、国家は死滅する過程にあるという主張からは、いつからそういう過程に入ったのか、ならば現代の国家とは一体何なのかなど、国家論に関する問いが矢継ぎ早に生まれてこざるをえない。
さらに言えば、文書は「社会運動の危機」を訴えているが、本当に危機なのかという疑問からはじまって、その危機は本当に「共産主義」によって克服されるのか、そんなことをすれば、かつての赤色労働組合主義と同じことになるのではないかといった疑念も浮かび上がってくる。
だから、私はこのアッピールを面白いと思うのである。たしかに、このアッピールはさまざまな労働運動家たちや「市民」運動家たちからは、現実の改良だけが問題であるこの時代に、こともあろうにマルクスの「亡霊」を復活させようとする唾棄すべきものと映ずるかもしれない。また、マルクス・レーニン主義を自称する人たちからは、権力を奪取することを語らないこの文書は、汚らわしい修正主義と映ずるかもしれない。しかもである。「広範な大衆」の政治的階級形成をすることを目的としつつも、あくまでも「研究所」なのだという。なぜなのか。そこではいったい「政治」と「研究」の関係はどうなっているのか。これは「統一戦線」なのか?だとしても具体的な闘争課題は何も提示されていない。つまり、疑問はつきない。
だから、私にはこの文書は面白いのである。もちろん、この研究会がどのように発展していくかは今後の運営次第であるのだが、はじめに行うべきは、このアッピールの挑発に乗って、上に挙げたようなもろもろの問題点を非妥協的に議論することだろう。さまざま分野の研究者やさまざまな「路線」をもった活動家、好奇心溢れる学生が集まり、論争ができる場を作るべきだと考えている。そうしたアーギュメントの空間をつくることが、「社会運動の危機」を克服する第一歩となるのではないかと期待している。
3)表三郎
60年の安保反対運動から半世紀が過ぎ、諸国家群からなる世界はいよいよ一大変貌の時を迎えつつある。この時に当たって、われわれが再結集し、世界をどう変えるかを共に研究し、討議し、運動しようとするのは,まことに時宜を得た試みであろう。これまでの運動、組織、理論のすべてを再検討することこそが、再出発の条件となるはずだ。小異を捨てて大同につくことこそ、われわれの今なすべきことであろう。全ては対話に始まる。
4)川上徹
「趣意書」は社会運動の危機意識から出発している。
ぼくは、「趣意書」が持っている多少挑発的で、かつ怒りが込められた論調に共感する。何に対して、誰に対して、挑発し、怒っているのだろうか。「私たち」以外の誰か、他者に向かっているのだろうか。いや、おそらくそうではないだろう。「趣意書」の筆者を含む「私たち」自身の過去(それが 「今」から遠かろうと近かろうと)、過去への省察、それらに対する知的怠慢に向けられたものではあるまいか。もし、そうであるとすれば、ぼくもその挑発に乗ってみようか、と考えたわけである。
ぼくはかねて現代の危機は「社会」の危機にあると考えてきた。その場合の「社会」とは、一般に「世間」とか「世の中」とかいわれる、抽象的で曖昧模糊としているもの(全体社会)ではなく、個人を単位とする相互主体的で有機的な関係を持った、人間的実態のあるもの(部分社会)を意味している。その 「社会」が存亡の危機にある。
人はみな、日々それぞれに意欲し、考え、引き受け、情熱をもって物事にあたり、それらの経験を重ねることによって、生きている価値を実感したいと強く望んでいる。だが、その価値は、自分を包み込んでいる人々のつながり、互いに主体的で自発的な人間の関係の中でのみ発見し、確認し、認めあえるものである。その関係を失ったとき、人は人たりうるのだろうか。いま、これらの関係から切り離されたまま、否応なくさまざまな「制度」や「システム」に組み込まれていく若者たちの、戸惑いのつぶやき、絶望的な悲鳴が、ぼくには聞こえるような気がする。おそらく独り合点ではないだろう。
なぜこんなことになったのか、だれが、何が、こうした結果に因果の責任があるのか。責任とまでは言わずとも、何らかの関係があるのか。人生の大半を、主観的には「左翼」として、しかもかなり周囲に対して騒がしく対してきた者として、おのれとの関わりにおいて考えておきたいと思うのである。
「趣意書」はぼくの文脈よりずっと先のこと、社会「運動」の危機を言っている。「共産主義」についてまで言及している。それらについては、いくつかの疑念がないわけではない。おそらくこの「趣意書」の意図を認めて集う人々も一様ではないと思われる。ぼくはむしろそこに期待したい。「社会」とは、 他者の視線を感受し、想像し、そのことによって自らの判断力、構想力を養ってくれる、自分の「居場所」となりうるところである。研究所がそのような一つの 「社会」であることを望む。
5)松田健二
提出された提案文のキーワードは「社会運動」と「共産主義」である。それについて私なりに理解したことを要約する。
① 社会運動について
日本でも世界でも、資本主義の形成と確立とともに、人々は政治運動と絡み合いながら様々な社会運動を展開してきた。1960年以降に限定していえば、石油・自動車産業を基軸とする大量生産・大量消費・大量廃棄の資本主義が生みだす諸問題に対応して、70年代には多様な社会運動が展開された。それらは、紆余曲折をたどりながら現在も持続されている。提案文で対象としている社会運動は、ソ連型社会主義の崩壊とともに出来したグローバル資本主義(新自由主義)に抵抗・対抗する、世界的に生起している社会運動である。
提案文は、この新たなる社会運動が総体として示す〈資本主義への抵抗〉を、時代規定的要因として把握している。その代表的な運動は「もうひとつの世界」をめざす世界社会フォーラムであろう。こうしたグローバル資本主義に対抗する20年にわたる社会運動は、いまだ〈我々〉の共通性を創出していないし、反資本主義を旗印とする政治的階級形成に進展していない。そこに社会運動の危機がある。(これは同時に政治運動の危機でもある)。
② 共産主義について
提案文はそうした現在の社会運動の限界──「オルタナティヴ」の空虚を埋めるものとして、共産主義を提起している。
マルクスの「共産主義は目指すべき未来の運動ではなく、現状を廃棄する現実の運動そのものである」という思想に立脚して、共産主義は様々な反乱や社会運動のなかでこそ発見されるものと規定している。また、現状を揺り動かしながら、「様々」であることにとどまっている〈我々〉の集団性を進化させていくこととしても、共産主義を定義している。
そして創立すべき研究所を、「〈共産主義〉の理念を利用者とともに、実践的な『問い』として今・ここに出現される装置である」と提案文は位置づけている。
「利用者とともに」とは、現実の政治運動と緊張関係を保ちながら、その担い手と協同して研究・文化活動を展開することである、と私は捉えている。
③ 研究所をどのように創り、運営していくか
提案文は従来のフォーラム型の呼びかけ文ではなく、旗色鮮明な「最初の一撃」となっている。政治運動そのものではなく、政治運動と緊張関係を保ちながら共産主義を発見していく、理論・文化・思想を創造する活動と運動。私は提案文の趣旨をこのように理解して賛成する。
6)山崎耕一郎
「労働」にこだわりながら、趣旨に賛同する。
私はかねてから、この数十年の中国経済の発展がマルクス経済学の正しさを証明している、と考えてきた。ここでいうマルクス経済学とは、ごく基礎的な「労働価値説」である。平たく言えば、労働が価値を生むということである。なぜそう考えたか。
1978年、「改革開放」政策が開始された時点で、中国には10億の人口があった。言い換えれば、貧しいが労働能力のある人間が数億人いた。資本はないに等しく、生産技術は極めて低い水準であった。「改革開放」以後、有り余る労働力めがけて、たくさんの資本が中国に押し寄せた。そして数十年後、中国は生産総量において日本に追いついた。さらに数十年たてば、国民一人当たりの生産量で日本に追いつき、総生産量でアメリカに追いつくと見られている。資本、技術が労働と結びついたから、巨大な富を産んだのである。続いて有望な国だと見られるインドも、労働力の豊富な国である。
中国の政治や制度のあり方について色々な議論があることは、私も承知している。その議論には私も参加したいと思っている。生産が量的に増えれば国民すべてが幸福になれるとはかぎらないのはもちろんである。しかし、この国の経済的成長の速さ、大きさについては誰も否定できないと思う。経済的豊かさは人間を幸福にする基礎的な条件である。
この間の日本ではどうか。周知のようにたくさんの労働力が、働く場を見出せないでいる。労働条件も低下している。現在の日本は、経済的な豊かさについてはかなりの水準に達している。にもかかわらず多くの人が、働き口に辿りつけない。辿りついても、企業間競争に駆り立てられて使い捨てにされている。この点で現在の日本は、1970年代以降、明らかに後退した。
社会主義とか共産主義とかを論ずるにあたり、権力の所在とか政治や社会の制度から出発して議論するのではない、という研究所設立の趣旨に賛成である。ルネサンスという名称にも好感をもっている。
ただ「労働」にはもう少しこだわってよいのではないかと思う。現在も将来も全ての人々が生き生きと働ける場所を獲得する、あるいは提供するというのが労働者運動の最もだいじな課題であり、それを実現できない現在の社会への批判は重要だからである。
労働して富を生産するといっても、生産物の量を増やせばよいという時代ではないことは言うまでもない。環境との調和は欠かせない。物の生産だけでなく、高い文化、良好なサービスの生産もだいじだ。そういう生産も含めて、人々の労働力が生き生きと活動できる社会を作ることが、我々の課題だと思っている。もちろんそのためには、労働者の様々な運動が進化しなければならない。
研究所活動のあり方をめぐる基本方針
- 連絡・調整機関として運営委員会を置く。運営委員にはさしあたり設立発起人が就任する。運営委員会は相互の信頼関係にのみもとづいて運営される。
- 賛同人を随時募集する。賛同人の名前は原則として公表される。
- 研究会、シンポジウム、講座等々を主催し、その企画と実行には運営委員も賛同人もそのつど個人の資格で参加する。
- 研究所の運営と活動は「地域」に根差したものとし、全国レベルのものについては運営委員会で調整する。
- 活動については参加者(運営委員や賛同人に限定されない)の自主的な立案と実行を原則とし、運営委員会は必要な協力を惜しまない。いかなる個人からの提案も受け付ける。
- 活動の成果を社会に向けて発信し、参加者の日常的議論と交流を促進するため、運営委員会は必要な措置を取る。
設立発起人(順不同)
新開純也 | 古賀暹 | 多田康男 | 井出彰 | 表三郎 | 川上徹 | 松田健二 |
山崎耕一郎 | 下山保 | 大下敦史 | 菅孝行 | 長原豊 | 八木健彦 | 太田昌国 |
榎原均 | 市田良彦 | 崎山政毅 | 後藤元 | 伊吹浩一 |
当面の連絡先
〒101-0065 東京都千代田区西神田3-1-2ウインド西神田502号
㈱ 情況出版
tel: 03-5213-3238
fax: 03-5213-3239
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